SW Message-003 | 巨大技術は化け物となる
いま読み返したい『スモール・イズ・ビューティフル』

2011.4.12 | 日経ビジネスON LINE | by SW



 
 
「限定された目標に向かっての成長はあってもよいが、際限のない、全面的な成長というものはありえない。」
 
 十数年前にある恩師から紹介されて初めて読んで以来、私の思考に多くの影響を与え続けている1冊の本があります。1973年に発表された、 E.F.シューマッハ著『スモール・イズ・ビューティフル』です。
 

人間とはブレーキの効かない生き物

 
 シューマッハは1911年ドイツ・ボン生まれ。英オックスフォード大学で学んだ後、戦後、英国に帰化し、1950年から英国石炭公社の顧問になりました。彼は1960年代から「近い将来におけるエネルギー危機」や「行き過ぎた資本主義社会の崩壊」を警告し、それはたちまち現実のものとなりました。
 人間とはなかなかブレーキの利かない、逆戻りのできない生き物です。50年も前から叫ばれ始めていた様々な忠告には耳を傾けることなく、際限なくエネルギーを使い続け、あらゆるものを作りまくってきました。とどまることを知らない技術開発。もちろん成長は悪いことではないのですが、再度「なぜ生きているのか」「どう生きていくべきなのか」という課題に対し、こころの底から向き合わなくてはならない時期が来ていました。
 
 そんな中、私たちは3月11日を迎え、福島原発問題に直面しました。
 
1990年、私がロンドン大学キングスカレッジで英語を勉強していた時に出会ったイギリス人教授は、授業の中で「日本ほどのブレイン国家はない」と、当時の日本の技術、生産、発展ぶりを絶賛していました。「日本がブレイン国家? 本当だろうか」。成長はどこまでも続くかのように思われていた時代でした。
 
 しかし日本経済の流れはその直後のバブル崩壊によって大きく変わっていくことになります。徹底した原価低減、パワーマネージメントの導入を余儀なくされ、会社は柔軟性に欠けた体質に変わっていきました。『スモール・イズ・ビューティフル』の中でシューマッハは次のように述べています。「奇妙なことであるが、技術というものは人間が作ったものなのに、独自の法則と原理で発展していく。そしてこの法則と原理が人間を含む生物界の原理、法則と非常に違うものなのである。自然界のすべてのものには、大きさ、早さ、力に限度がある。だから、人間も一部である自然界には、均衡、調節、浄化の力が働いているのである。しかし、技術にはこれがない。というよりは、技術と専門家に支配された人間にはその力がないというべきであろう。」
 
 どのような時代においても、時には流れがあり、バイオリズムがあることは世の中の原理でしょう。シューマッハはまた「ふるさと派」と呼ばれるコンセプトを掲げ、急激に進展する都市化は抑えるべきであるという考え方を示しました。
 
 すべてが予測されていたということです。警告がなされていたにもかかわらずそれを無視して50年が経ち、環境や資源、さまざまな問題が明らかになってきました。人間にふさわしいスピードをはるかに超えて展開された近代化、資本化、消費社会がもたらしたあまりにも大きな弊害。
 
 

映画『2001年宇宙の旅』が意味するもの


私たちはもうこれ以上同じ間違いを繰り返してはいけない。
 
『スモール・イズ・ビューティフル』と同時代、1968年のSF映画最高傑作、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』。この映画もまた、人間の技術がつくり出すものに対する強烈なメッセージを含んでいました。
 
 冷戦時代の1961年5月。宇宙開発でロシアに遅れをとったアメリカのケネディ大統領は国民を前に劇的な演説を行いました。それは1960年代が終わるまでに、人類を月に着陸させ、無事に帰還させるというものでした。アポロ計画です。この政治戦略的な思惑から始まった「ムーンレース」、それは巨大化した技術競争でもありました。米国政府はNASA(米航空宇宙局)に対し膨大な予算をつぎ込んで行くことになったのです。
 
そんな背景の中、この映画が生まれます。1964年、1人の有能な若手監督が映画製作会社MGMに壮大なアイディアを持ち込みました。その名はスタンリー・キューブリック。MGMは、世界で巻き上がる熱烈な宇宙ブームの中で大ヒットSF映画にできると考えたのです。キューブリックは破格の予算と制作期間2年という条件を要求したと言います。
 
 公開は1968年。アポロが月に到達し、石を持ち帰る1年前のことでした。映画史上に残る破格の予算をかけた“SF娯楽ムービー”を期待したMGM幹部、そして多くの観衆にとってその内容は難しく理解のできないものでした。華やかな宇宙旅行の中で起こる、『ハル』と呼ばれる超高性能コンピュータの人間に対する反逆、不可解な未知との遭遇。この映画は何を意味しているのでしょうか。
 
 キューブリックのスピリットと恐ろしく豊かなイマジネーション。「意味がわからない」と酷評されても、結果、ほかに類をみない作品となり、多くの科学者やクリエイターに今なお大きな力を与え続けているのは、すべてこの作品の中に込められたメッセージの強さによるものだと思います。
 
 いかに技術が進もうとも大切なことは「人」であり、「自然」であり、マザープラネット「地球」であるということ。「人間らしい」とはどういうことなのか。この映画は全編にわたって問いを投げかけているように感じられます。 そして何よりも人間による「技術の行く末」を、この時代に明確に予言しているのです。
 
 この「人間らしい」、そして人間が自然界と協調して生きていく姿勢・感覚を、私は「ヒューマンセンス」と呼びたいと思います。この「ヒューマンセンス」は、近代化が進めば進むほど、技術が巨大化すればするほど退化をはじめます。1970年代を過ぎた頃から、アメリカを中心とした先進国の生産・消費体制は度を超えた発展を遂げてきました。人間の持つ“センス”は“もの”の増殖に反比例して失われていきます。
 
 そして世紀末を迎えた1990年代、世界はコンピュータとインターネットの飛躍的な普及により、“もの”以上に“情報”に溢れかえりました。
 
 

現代技術が「ヒューマンセンス」を奪い取った

 
 我々の“センス”はこの20年足らずの間に、完全に崩壊しつつあるように思います。現代技術はどれほどの手作業を奪い取ったか。それはどれほどの「ヒューマンセンス」を奪い取ったかということです。「ヒューマンセンス」を失う、これは感動のない悲しい世界です。人間には「ヒューマンセンス」が必要です。それは本質的なリアリティを感じる感覚であり、自然とともに生きようとする人類生存のための最後の鍵だと思うのです。
 
シューマッハは警告しました。
「技術というものは、大きさ、早さ、力を自ら制御する原理を認めない。従って均衡、調整、浄化の力が働かないのである。自然界の微妙な体系の中に持ち込まれると、技術とりわけ現代の巨大技術は異物時には“化け物”となって作用する。」
 
 我々はまさしくこの状況を、今体験しているのです。
 
 この社会は、その多くが自然の原理に対して行き過ぎたものになっているのではないでしょうか。地球が、そして人間が悲しいものにならないためにも、新たな道においてさらなる間違いをおかさないよう復興をしていかなければなりません。
 
 「私には実際、何ができるのでしょうか」。その答えは決して簡単ではありません。「各自が自分のこころを整えること、それが答えである。」とシューマッハは言います。「そしてその手引きは、科学、技術に求めても得ることができない。科学、技術の価値。それはすべてそれが仕える目的に左右されるからである。しかし、我々は人類の英知の伝統の中にこの手引きを今でも見いだすことができるのではないか。」
 
 我々がいま直面している課題は、世界地球全体の課題です。この問題を解決する上で本当に役に立つ技術、人間と自然の調和をもたらす技術とはどのようなものであるかを見極めることが最も大切なことだと思います。
 
 「人間らしい」とはどういうことなのか。分野や職種に関わらず、あらゆる場面で、私たち一人ひとりがこの問いの答えを探していきましょう。