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和田智
Satoshi WADAS
Wdesign・代表

1961年東京生まれ.アウディシニアデザイナー兼クリエイティブマネーとしてアウディのシンボルとなったシングルフレームをデザインし,アウディブランド確立の立役者となる.主な作品にアウディA6,Q7,A5など作品多数.2010年アウディを独立,現在は主となるカー&プロダクトデザインの領域を越えたクリエイティブ活動を実施する. SWdesign TOKYO代表.

1988年、私は友人であるアーキテクト5寺澤氏を通してイサムノグチを知ることになります。その年、氏は他界されましたがその後、寺澤氏の案内で、香川県牟礼町にある氏のアトリエと住居を訪れることになります。当時はまだ美術館となる前の話で関係者以外は立ち入ることができませんでした。イサムを敬愛する私は、そこで3時間イサムの作品を描きまくることになります。それはまさしく時空を超えたイサムとの対話でした。そんな経緯もあり、寺澤氏とは私が日本を離れてからも親交は続いていました。2009年、寺澤氏が独立するにあたり、私を訪ねてきました。当時、私は、アメリカLAにあるアウディ&VWのサテライトスタジオでデザインディレクターとして勤務していましたがすでに私自身も次のビジョンを持ち始めていました。寺澤氏と現在置かれている日本の問題、お互いの出身地である東京の問題などを語り始めました。寺澤氏も今の日本、東京のあり方に疑問を抱いていました。私が話し終わると、何も聞かずに「一緒にやろう」と言ってくれました。この壮大なプロジェクトを実施するにあたり意志を受け継いだアーキテクト5のメンバーの協力が絶対的に必要でした。幻の碑には大きなメッセージが今も存在しています。地球からこのような間違いが二度と起こらないためにも、またアメリカ、オバマ大統領からの呼びかけに対し、核を体験した地球最後の国となるために我々日本人はいったい何をしなければならないのでしょうか?これからの地球の未来のためにあのような惨劇を生む戦争を繰り返してはいけない、その意味においてあの広島をあの長崎を世界に新しいかたちでメッセージする必要を感じています。今ならできるということではなく、今でなければ伝えられない真実をこれからの子どもたちにそして海外の国々に伝えるという意味において、私はあのイサムノグチの『幻のデザイン』を日本の1つの揺るぎない意志として『東京』に創ることを強く要請します。この意味は伝えていかなければならない日本の未来への意志として。

SWdesign TOKYO HP :
http://www.swdesign-office.com/

寺澤任弘
Takahiro TERASAWA
ARCHITECT 7・代表

1960年東京生まれ.武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業.(株)山内設計室にて主に環境工学系プログラム開発,(株)建築システムにて日影計算,CAD開発などに携わる.1988年より約20年間(株)アーキテクトファイブにて設計業務と平行して事務所のIT化を担当.2006年同取締役.2010年ARCHITECT7/寺澤建築設計事務所設立.芝浦工業大学非常勤講師.

1988年、設立2年目のアーキテクト5に入社して間もない私は他の担当スタッフとともにイサムノグチの描いた1/2000のマスタープランをもとにコルクボードを刻み模型製作をしていました。実はその18年前の1970年、私にとっては、10才の夏に訪れた大阪万博での刺激的な空間体験が、今から振り返って見ると建築を志すことになるきっかけだったと思っています。万博会場の様々な建築デザイン、目まぐるしく沸き起こる空間体験のなかにあっても、お祭り広場の大屋根を背景に望む人工池にたどり着いたとき、初めて見るイサムノグチの水の造形群とその躍動感に、引き込まれるように吸い寄せられ、当時はその作者もわからないままにただただその場に惹きつけられ、見飽きることのない水の彫刻に見惚れて立ち尽くしていた記憶が今でも鮮明に蘇ります。それは人工的につくられたものでありながら例えば焚き火を眺めているときのような自然のうつろいを見る感覚だったのかもしれません。その時無意識に感じていたイサムノグチのメ ッセージがどこか潜在意識に焼き付いていたからなのかどうか、あるいはなにか因果関係によるものなのかどうか、いくつかの偶然/必然の結果、1988年から完成に至るまでのおよそ17年間、イサムノグチの最後の作品となった札幌モエレ沼公園の実現に関わるようになっていたのです。そしてこの経験を通して受け取った様々なメッセージを伝えたい。自然と人間との関係、さらにいえば科学技術と人間との関係がうまくゆくようにという願い、平和で心も豊かな未来への意志を込めたイサムノグチからのメッセージを、世代を超えて次々と引き継いで行けるようにできないか?この慰霊碑をコアとして周辺にはモエレ沼公園の様なランドスケープを実現し、多くの人々に体験して欲しい。そしてそこからなにかメッセージを感じ取ってほしい。この計画は東京の未来にこそ必要であると思っています。

Architect7 HP :
http://www.architect-7.com/

鞍谷万樹
Maki KURATANI
鞍谷万樹建築設計事務所・代表



ペルー生まれ.幼少時代を東京,神戸で過ごす. イサムノグチ氏との出会いは,1988年,米国在住時,ニューヨークにおいて開催された氏の最後の講演会であった.東京大学文学部美術史学科,工学部建築学科卒業.イサムノグチのモエレ沼公園を共同設計していたアーキテクトファイブに5年間勤務ののち,2003年鞍谷万樹設計事務所を開設,現在に至る.

1988年、ニューヨークのジャパンソサエティにおいて行われたイサムノグチ氏のおそらく最後の講演会場に、まだ高校生の私はいた。最初こそ、言葉を選びながらゆっくりと語り始めたノグチ氏だったが、その言葉の一つ一つは強く美しく、観客は皆、終始息をのむようにその言葉に聞き入った。彼が語ったこと、それは自分の作品への思い、自然、人間、そして次の世代への希望であった。講演のあと、自分のノートを持っておずおずと氏のもとへ向かうと、関係者に囲まれていたにもかかわらず、手を伸ばして私からノートを受け取ってくれた。かがんでサインをしている氏の背に、私は思いがけず「建築家になりたいんです。」と話しかけた。それは自分でも初めて将来の夢を口にした瞬間であった。「がんばってください。」ノグチ氏は手をとめ、ゆっくりと顔を上げ私の顔を見ると、ちょっと面白そうに言った。私はその後、イサムノグチ氏に語った自分の言葉を嘘にしたくないという気持ちで回り道を重ねながらも建築の道へ歩んだのである。今思えば、氏が私のノートを手にしたのは、私が「次世代」であったこと、そして彼の愛した「日本」の次世代であったからではないかと思う。
戦争、天災、環境問題。この東京という都市も、時代の新たな問題に直面して、次に進むべき道を模索している。未来の東京が、氏がイメージした世界へと近づくよう、そしてノグチ氏が危惧したように「人間」が「かわいそうなもの」にならないよう、氏が我々に遺してくれたメッセージを道しるべに、未来へと「走る」責任を感じている。

MK design Office HP :
http://www.makikuratani.com/